1930/4/26
いくばくかの勇気なしには、一度たりとも、人は自分自身に関するまともな考察を書くことはできない。
この一文で日記は始まる。
残りの、そしてもっとも大切な自分自身について、まともに向き合う覚悟をここで表明している。ルーイがこの自身についての考察を生前公表しなかったのは、気恥ずかしさもあるだろうし、明晰に記述できる可能性も理性も才能も、持ち合わせている自信がとてもなかった、ということ以上に、論考とそれに続く書物に並ぶ価値を、自分自身に認めていなかったからではと思われる。要するに、謙遜だった。
ルーイは、世界について考察しきって、形而上学の問題も言語観の転換によって解決した。そして、ケンブリッジで博士号を与えられ、奨学金を受け、講義で教鞭をとり、新たな原稿を執筆しはじめたころだった。田舎のウィーンでイースターが明け、職場のあるケンブリッジに戻った直後、この日記を彼はつけはじめた。
彼はこの日記を隠すつもりはなかった。後世の研究のために残す意図があった。編者が次のように書いている。
「しばしば自分の哲学的思考過程を同時に何冊かの手稿ノートに記入する習慣があった。」
自分の思考が記録として散逸しないように、複製していたように思われる。
「そこには時として個人的な性格の省察や文化史的内容の省察が混じっており、時にはそれらのうちの長短様々な長さが暗号体で綴られている。」
私的すぎる話題なのだろう、自分しか読めない暗号で記述していたことから、すべての思考記録を保存しておきたい意思も感じられる。研究として、あるいは生活の思い出として、であろう。
「その際しばしば同じ思考が、しかも時には同じ文書で異なった箇所に登場する。」
これは、彼の、命題ないし彼の考えた言葉への、こだわりが感じられる。いや、それが彼を支えていたのだろう。その言葉それ自体が、あるいはその言葉を生み出した矜持、またはそれが後世まで残ることへの反復的な衝動。
というのは、この日、ルーイは自分の才能や理性が、いずれ失われうるものだということから恐れや不安を感じていた。彼自身の生計が、その才能ないし理性に全く依存していたからだった。
いつ私から奪われるかもしれない一つの才能に、自分の職業がいかに完全に依存しているか考えると、私はいつも恐ろしくなる。きわめて頻繁に、何度もこのことについて考える。
かなり強迫的な反復が脳内を占めていたと思われる。もちろんこの背景には、戦場で閃いて記したあの論考の体験が焼き付いているからであろうけど、
とりわけ、一人の人間からいかにすべてが奪われうるかについて、自分がどれだけのものを持っているかを人が決して知ることがないということについて、そして、あらゆるものの中で最も本質的なものに人がはじめて気づくのは、まさにそれを突然失ったときであるということについて考える。まさにきわめて本質的で、それゆえ、きわめて当たり前であるがゆえに、人はこのことに気づかないのである。
そう、失ったことを、誰も気づかない、そして自身もあらかじめ失われると本当には気づけない、そして本質的に、人は誰でも気づかないことが当たり前の人間的性質だ、という前提のまえで、ルーイは恐れと不安に満ちている。
私はとても頻繁に、というか、ほとんど常に不安で満たされている。
私の頭はとても興奮しやすい。
これは、広い興味を持ってしまった者の宿命である。好奇心から、刺激に大きく感受してしまい、知的な感情の振幅が大きくなっている。心の安定をすでに得られくくなってしまっている。
自分は一種の精神的な便秘を患っている。それともこれは、腹の中に実はもう何もないのに吐き出したいと感じる時のような幻想に過ぎないのか?
ルーイには、何か自分の腹部だろう、そこにまだ語り足りない、あるいはいつまでも語れる言語製造機のような発生源を、みとめたのだと思う。そして、それが幻想のようなものにすぎないかもしれないことも半分悟っている。何も言いたいことがないのに、思考が続いて、言いたいことが出てきて、現にこの日記に書きつけられている。
私は何度も、あたかも自分の中に何か塊のようなものがあり、それが柔らかくなりそうになると私を泣かせたり、あるいは私がそのときにふさわしい言葉(あるいはひょっとするとメロディーですら)を見出すのであるかのように感じる。しかしこの何か(それは心なのか?)は私の中で革のような手触りがして、柔らかくはならないのだ。それともただ私が臆病で、体温を十分に上げられないだけなのか?
ルーイのみとめたこの腹部の「革袋」は、感情によって柔らかくなると涙を流させ、言葉を見つけてくる。それを、彼は、これが本当の心なのではないか、と純粋に考えてようとしている。心といえば柔らかいはずだが、というか柔らかく和やかであるべきはずだが、彼の発見した心は、とても柔らかくない。それを彼は、性格のせいや物理的な条件のせいにしてみている、が、本気でそう考えたいとは思っていない。
折れるにはあまりにも弱すぎるという人間が存在する。私もその一人だ。
私の中でおそらくいつか壊れそうで、そして時としてそれが壊れるのではないかと恐れる唯一つのもの、それは私の理性である。
そう、彼はパスカルの葦をもじるほどに、自分が弱いことに、強烈な自覚を持っている。そして、論考を書き終え、教鞭をとるほどの、その理性が、最も脆弱であり、そして彼自身でも、崩壊するだろうと恐れうるのはその彼自身の理性しかない、ことをここで表明している。
彼の構築した言語世界観は、確かに強靭なように思われた。しかし、構築し終えたばかりの彼の理性は、少なくともこのときは、ひとくきの葦のごとく、最も弱く脆いものにすぎなかった。己の理性の脆弱さを理解することが、哲学の目的であったかのように、である。
時に私は、自分の頭脳がいつか酷使に耐えられずたわんでしまうのではないかと思う。なぜならその能力に比べて恐ろしいほどのことを要求されているからだ、少なくとも私にはしばしばそのように思えるのだ。
多くの教養を積み、それをまとめあげ、世界で話題になるにつれ、ルーイに寄せられる期待も高まるが、今の彼の脆弱な自己ではとてもやっていけそうもない、壊れてしまいかねない、それをこのはじまりの日は、ただ不安の中で恐れていたのだ。